【特集:1960年代の黒人さんたちの底力!】 教育における人種差別撤廃運動!


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1960年代のあれこれ!
ヒッピーたちのあれこれ!


本日のテーマは

・1960年代の黒人さんたちの底力!

です。




2回目の今回は、教育現場における人種差別撤廃運動をご紹介いたします。


当時のアメリカ南部では、黒人と白人で公共施設が分離されていたので、

黒人は黒人用の学校に通学をしていました。

(北部でも、黒人と白人で住む地域が分かれていたため、

明確な分離政策は取られていなかったものの、慣習的に人種ごとに学校に通学していたようです。)


黒人は白人と同じように税金を納めているのに、

黒人用学校は白人学校の予算よりも少ない予算しか与えられず、

黒人が受けることができる教育のレベルも白人に比べて低いものでした。


これに抗議したのが、8歳のリンダ・ブラウンとその家族でした。

リンダ・ブラウンは家のすぐ近くの白人学校を通り過ぎ、

遠い黒人用学校に通学しなければならなかったため、

1951年アメリカ中部のカンザス州で父親が訴訟を起こしました。

(ブラウン対教育委員会裁判)


この裁判は最終的に最高裁で審理され

1952年、「公共の教育機関における児童の人種分離政策は違憲であり、

分離すれども平等という原則には根拠がない」、

1955年、「十分慎重に、かつ速やかに人種統合を実施するように」

という判決を勝ち取ります。

教育現場に限定されていた点、人種統合策に対する強制力が少なく、

それまでの慣習を温存させることが可能であった点などで

不満を残すものではありましたが、

人種差別を違憲としたこの判例は、

アフリカ系アメリカ人に他の場所にも展開できる前例を与えました。




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人種統合に対する白人の抵抗としては、

KKK(クー・クラックス・クラン)が最も有名です。


分離政策以前に、そもそも南部においては、

黒人が丁寧な言葉を使わないこと、

女性を見る事触れる事、

反感を買う態度を取っただけでも、

命の保証はありませんでした。

白人女性と黒人男性の肉体関係などは究極のタブーとされていました。

(これとは反対に、白人男性と黒人女性の肉体関係は、

無理強いした場合でも罰せられないという暗黙の了解がありました。)


KKKのメンバーは、激しい人種差別主義者として、

白人に対抗しようとする黒人の家に爆弾を放り投げたり、

闇に応じてリンチを仕掛けて殺害をするということを頻繁に行っていました。


KKKには保安官も多数所属しており、

黒人が痛めつけられたり殺されたりしても、

裁判でKKKが有罪となることは当時ほとんどありませんでした。


反対に、黒人として裁判で白人の罪を告発することや、

人種差別撤廃を求めて訴訟するという行動を取ることは、

職を失ったり、脅迫電話を受けたり、家に向けて発砲されたり、

自らの命を狙われる危険を冒すことを意味しました。



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公教育の現場での人種差別を違憲とする判決を勝ち取りはしたものの、

黒人学生が白人と同じ教育を受けることができるようになるには、

様々な嫌がらせや妨害を乗り越え、権利を勝ち取る必要がありました。

2つの事例を紹介させてください。





1957南部アーカンソー州リトルロックの高校で、白人用の学校に9人の黒人学生が入学をします。

しかし、入学初日には人種統合政策に反対するオーヴァル・フォーバス州知事が州兵を出動させ、

黒人学生が学校に入ることを許しませんでした。

これは、最高裁の憲法解釈に公然と歯向かう行為であったため、

アイゼンハウアー大統領は、1000人の連邦軍を配備し、

9人の生徒を護衛してようやく翌日生徒たちは学校の敷居をまたぐことができました。

白人学生からの様々な嫌がらせにも負けずに、8人の学生が無事卒業を果たしました。





1961年ミシシッピ大学への入学を拒否されたジェイムズ・メレディス。

彼は訴訟を起こし、1962年に入学を認可する判決を受けます。

しかし、バーネット州知事が、州政府の最高責任者として入学登録を拒否したことで、

州政府と連邦政府の対決が始まります。


武力闘争に発展する可能性を考え、

ケネディ大統領は300人もの連邦保安官を派遣したうえで、

入学登録の前日の夜にメレディスをキャンパスに滑り込ませました。

しかし、メレディスの入学を拒絶する差別主義者や学生が学校に集まり、

メレディス到着から1時間もしないうちに、大学を舞台に暴動が始まりました。


トラックのタイヤをナイフで尽き、石や瓶、レンガを投げつけ、手近な物を燃やし、

ライフル銃や散弾銃までが発砲され、火炎瓶が投げつけれる事態へ。

2000人以上の暴徒に対して連邦保安官は催涙ガスの使用しか許されていなかったため、

戦いは一方的なものでした。


ケネディ大統領の命令によって、

6時間後にようやく連邦軍が到着したものの、

暴動が治まったのは早朝になってからでした。


メレディスはこの日、

最初の黒人として登録をして授業へ向かいましたが、

さらなる暴動を防ぐために、

正午までに一万五千人を超える連邦軍が配置されたということです。


入学してからも様々な嫌がらせを受けましたが、

メレディスは無事に卒業します。


メレディスは数年後、

「わたしは戦場にいった経験があります。

(大学では)一日目からわたしは戦場に来ているんだと思うようにしてました。

私の目的はその当時はケネディ政権ですが、連邦政府を動かし、

一市民としてのわたしの権利を行使させるために、

アメリカ軍を使わなければならない状態を作り出すことでした」と語っています。


受動的に騒動に巻き込まれたわけではなく、

「白人優位のシステムを壊す」ために、計算をして行動した結果の勝利なんです。

本当にすごい人ですね。



黒人入学に対して、連邦軍X暴徒の暴動が発生するほどの抵抗運動が起きるほどの憎悪(?)の感情が引き起こされるのを想像するのは、

今の時代からするとちょっと難しいです。

時代ごとに価値観が形成され、

今は人種差別=悪という公式が大多数の構成員に受け入れられる社会ではないかと思いますが(差別感情や慣習は残っているにしても)、

その意識も一つ一つの差別に実際に声を上げて、平等な待遇を獲得することによって、

つまり人々の行動によって獲得されたものなのだと考えると、

遠い1960年代の公民権運動と2017年の自分が繋がるような気がします。



今回はここまでです!最終回もお楽しみに☆☆☆








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公演情報 | 2017/09/08 20:00